株式会社ヨコオ

  • エンジニア・
    発明家として

    ヨコオの<ものづくり>の原点となったのは、横尾忠太郎が得意とした精密金属パイプ「管(クダ)」でした。
    横尾忠太郎が金属パイプ加工の知識と持ち前のアイディアを活かして発明・開発し、当時世界のトップシェアとなった製品をご紹介します。

  • 地域雇用の
    促進に貢献

    富岡製糸場開設以来の繊維の町から、産業構造の大きな転換期を迎えていた富岡市に工場を建設し事業拡大することにより、市の発展と地域雇用の促進に貢献しました。

  • 政財界人として

    約18年間、町・市議会議員、市長、富岡商工会議所会頭などを歴任し、その他にも多くの職務を通じて、富岡市の発展に貢献しました。

エンジニア・発明家として

「すべてはクダから始まった」

横尾忠太郎は、金属パイプ加工の知識と持ち前のアイディアを活かして、さまざまな新製品を発明・開発しました。その代表的なものである、バネ棒とロッドアンテナをご紹介します(実用新案登録取得)。

バネ棒(スプリングバー)

バネ棒(スプリングバー)

昭和初期までの腕時計は、ベルトを本体に縫い付け、取り付けていました。この方法は製造に手間がかかる上に、ベルトの交換が容易ではありませんでした。忠太郎は、簡単にベルトを着脱できる部品の開発に取り組み、その結果生まれたのがバネ棒です。

バネ棒は、金属パイプの内部に仕込んだバネにより、両端に突き出した金属棒が伸縮する仕組みです。私たちが腕時計のベルトを簡単に交換することができるのは、このバネ棒のおかげです。

現在でも、全世界で製造されるほぼすべての腕時計に使われていることからもわかるように、これは世界に誇ることができる画期的な発明でした。

ロッドアンテナ

ロッドアンテナ

ラジオ・テレビなどに見られる、金属製パイプの伸縮するアンテナが、ロッドアンテナです。トランジスタラジオが発売された当時つけられていたロッドアンテナは品質が悪く、スムーズに伸び縮みしませんでした。

忠太郎は伸管技術の知識を活かし、パイプの中に鏻青銅の板バネを仕込むことを思いつきました。

この工夫によって製品化されたアンテナは、伸縮がスムーズで、しかも高感度であることが認められ、世界一のシェア(当時70%強)を獲得しました。

地域雇用の促進に貢献

昭和30年代に入り、富岡市は富岡製糸場開設以来の繊維の町から、産業構造の大きな転換期を迎えていました。
横尾忠太郎は、ヨコオの前身・横尾製作所の事業拡大を通じて、市の発展と地域雇用の促進に貢献しました。

神農原工場神農原工場(昭和36年(1961年)12月開設)

昭和30年代半ばから、トランジスタラジオの普及によってロッドアンテナの需要が急増したため、横尾製作所は、既設の仲町工場、七日市工場に続き、昭和36年(1961年)に生産設備拡張のため神農原工場を新設しました。

この時期、富岡の産業は大きな転換期を迎えていました。富岡は、明治5年(1872年)の製糸場開業以来、繊維の町として栄えてきました。

しかし、昭和30年(1955年)を境に日本は経済高度成長期に入り、富岡市も市民の雇用や所得の増大、市財政等の基盤確立のため、積極的な工業誘致施策を打ち出し、産業構造の体質改善をめざします。そして昭和37年(1962年)、東部工業団地を造成し、電気機器関連の2企業を誘致しました。

一方、横尾製作所神農原工場は、誘致企業2社に先駆けて、昭和37年(1962年)に稼動を開始しました。いち早く東部工業地帯の一角に神農原工場の新設を決めたのは、産業構造転換という市の政策に沿った郷土愛あふれる事業家としての、横尾忠太郎の決断でした。

折りしもこの年、富岡市の電気機器製造業の製品出荷額が繊維製品を抜いて第1位になります(「富岡市の工業誌~工業の歩みとその将来像」工業誌編さん委員会編・富岡市発行・平成13年(2001年)より。グラフ(1)参照)。この間、横尾製作所の売上高は昭和35年度(昭和35年1月~12月)の約10億円から昭和41年度(昭和41年4月~昭和42年3月)の約40億円へと4倍に成長しており、この逆転を早期に実現させた要因の一つであると考えられます。

また、横尾製作所は、地域雇用創出の面でも大きく貢献しました。富岡市の電気機器製品出荷額が急速に伸びる中で、横尾製作所の市内3工場(仲町、七日市、神農原)の従業員数が電気機器製造業従事者の総数に占める割合は、昭和36年(1961年)以降、一貫して40%前後を占めつづけて大きな雇用を創出してきました(グラフ(2)参照)。

このように横尾製作所は、忠太郎の卓越した経営手腕により、大きな成長をするとともに富岡市の発展に貢献してきました。

  • 1.富岡市の製造品出荷額の推移/繊維製品と電気機器製品の比較
  • 2.富岡市の電気機器製造業従事者数と横尾製作所の市内従業員数の推移

(富岡市の業種別製造品出荷額、従事者数は、群馬県統計課「工業統計調査」より)

  • ロッドアンテナ組立工場昭和33年頃のロッドアンテナ組立工場
  • 七日市工場事務所棟昭和30年代の七日市工場事務所棟
  • 創立10周年記念行事昭和36年(1961年)創立10周年記念行事

政財界人として

横尾忠太郎は、長年にわたり富岡市の市政や工業界の多くの職務を通して、郷土・富岡市の発展に貢献しました。

  • 富岡商工会館 富岡商工会館(昭和35年開設)
    (「富岡商工会議所二拾年史」より)
  • 小中学校共同給食センター 小中学校共同給食センター(昭和43年開設)
    (「富岡市のあゆみ(市制施行30周年記念)」より)

昭和26年(1951年)から44年(1969年)までの約18年間に、町・市議会議員、市長、富岡商工会議所会頭などを歴任しました。
昭和26年(1951年)に富岡町議会議員に第一位で初当選。昭和29年(1954年)の町村合併・市制施行をはさんで連続3期(12年間)、町・市議会議員を務めました。

この間、昭和29年(1954年)の町村合併に際しては、町村合併推進委員会委員長および新市建設審議会委員としてその推進に力を尽くし、功績を残しました。

昭和33年(1958年)には、全会一致で議長に推挙され、市財政の確立、公共事業の推進など、あらゆる面で献身的に活動しました。
昭和40年(1965年)に、市長に当選。経営者としての手腕を市政にも遺憾なく発揮し、小中学校共同給食センターの建設を実現するなど、富岡市の発展に大きく貢献して、任期を全うしました。

富岡商工会議所においては、富岡商工会館の建設にあたり、役員として惜しみない努力を払ってこれを推進し、昭和35年(1960年)に完成させました。その後、会頭を務め、市長在職中も顧問として活動しました。

そのほか、富岡市消防長、富岡市文化協会会長、富岡法人会会長など、多くの職務を通じて、文化・スポーツの振興、安全の推進など、公共の利益のために尽力しました。

忠太郎柿

忠太郎柿

桑畑が減り空き地となった畑に植えてもらい、富岡の名産にしようと、忠太郎は毎年、忠太郎柿と名づけた富有柿の苗5,000本を10年以上にわたり農家に贈り続けました。

画期的な発明考案による実業家ならびに富岡市の政財界人としての功績により、昭和41年(1966年)11月、勲四等旭日小綬章に、昭和52年(1977年)6月、正五位勲三等瑞宝章に叙せられました。
また、平成24年(2012年)3月に、富岡市より名誉市民として顕彰されました。